介護疲れからのうつ病にならないために😌

私が介護疲れからうつ病を発症してから(病名がわかってから)14年が経ちました。

はじめにケアラーとなったいきさつを書かせていただきたいと思います。


義父が他界して2週間後、38歳の夏の朝突然ケアラー(家族介護者)となりました。

母の診断名は、糖尿病からの多発性脳梗塞と同時に細菌性の感染症も起こしていました。

その頃は今程CT検査の精度も良くなく、発症する1〜2年前から足の運びが悪くなったり、

何となく母本来とは違う違和感を感じるときもあり、大学病院も含め🏥幾つかの病院を

受診しましたが、全て椎間板ヘルニア気味という診断名でした。


その時長男が中一•次男は小五でした。

その時はまた介護保険制度は始まっていませんでした。

それから3年の間に2回の脳梗塞の発作、イレウス(腸閉塞)を起こし、最後の発作の後歩行が出来なくなり身体障害者2級取得と同時に介護保険制度が始まりました。

その頃すでに今でいう脳血管性の認知症は始まっていたのだと思います。

余談ですが🤣、3回目の入院の際次男が高円宮杯予選のサッカー⚽️の試合中に骨折して、

母と同じ病院の🏥異なる階に入院し、病棟の看護師さんにも笑われ😅ました。

また、介護保険制度の自宅改修🏠で車椅子♿️👩‍🦼生活となる母が外出するために、部屋から直接車椅子で出られるように庭にスロープ工事をしました。暫くしてからは簡易スロープや昇降機をレンタルで借りられるようになりましたが、当初は工事するしかありませんでした。

そこでまたまた笑えたのが😅、そのスロープを母より先に使用したのが骨折した次男が車椅子で

通学するために使用したことでした。👩‍🦼(あって良かった🤭)


それから7年後、またある日の夕方から今度はWケアラーとなりました。

インシュリン注射やバルーンカテーテル留置でほぼ完全介護が必要となっていた母に夕飯🍚を

食べさせていた時に、相模大野駅から電話☎️があり、外出帰りの父が「車内で倒れこれから

救急車🚑で搬送する。」という連絡をもらいました。

そこには冷静な私がいて、「介護している母に夕飯を食べさせてからでないと病院には迎えないこと、遠くの病院には搬送されると困ること。」を駅員さんに話しました。

駅員さんが救急隊の方に告げて下さり幸い母がお世話になっている病院に搬送していただけました。

息子たちも学校の後サッカーの練習で家にはいなく、それから仕事先の夫に連絡を入れて、母を自宅に残し病院へと向かいました。

直ぐに検査が始まり翌日には「癌が胃から肝臓に転移している状態で余命2ヶ月くらいです。」と

担当医から説明がありました。

そのとき母は訪問診察•看護とデイサービスを週2回利用していました。

母が3回の入院でお世話になった同じ病棟に父もお世話になることになりました。

顔馴染みのひとりの看護師さんが「山田さん、ひとりで二人を観るのは無理だと思うよ。😆」と

言って下さいましたが、現実しか見えなかった私にはそのときの看護師さんの言葉が『金言』

として受け止めなかったことが、介護疲れからのうつ病を招いてしまったことに繋がることに

なったのだと思っています。

そして、4ヶ月頑張ってくれた父が他界し程なくして、後から考えるとその頃から少しずつ私は

うつ症状が始まっていったのだと『ケアラーズカフェモンステラ』を初めてから気づきました。

どうしてうつ症状が始まってから7年も経ってからでないと病気がわからなかったのは、

私のうつ症状が《こころの症状》ではなく《身体に症状が出る》タイプだったからです。


次回は具体的に私の気づくのが遅れたうつ症状についてお話ししたいと思います。

お付き合いいただけましたら幸いです。🙏😌

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ケアラーズカフェ モンステラ

家族介護者(ケアラー)の方の気持ちに寄り添いながら、 あなたと同じ目線に立ち、悩みをわかち合うことで、 ホットできる心の癒しの場でもあります。 元ケアラーが自宅を開放しています。

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