私の歳の離れた友人であり「生きる」の先生
ケアラーズカフェ☕️モンステラのリーフレットに寄稿文を寄せてくださった関田むつみさん
むつみさんのこれまでの想いを書くチャンスが訪れました。
是非お読みいただけたら幸いです。
以前、神奈川県ライトセンターの機関士において読み物を執筆させていただく機会を頂きました。
そして先日その掲載号が公開されたので、こちらにも記念カキコということで投稿したいと思います。
原稿に関しては著作権はこちらに帰属するとのことでおっけー。
内用はこれまでにフェイスブックの方でも投稿したことのあるもののつぎはぎですが、自分の境遇と恩師との出会い、機器からの立ち直りにおいて影響を受けた言葉と価値観、そして新たな価値観のケイセイに到るまでの話しです。
最近面白い出来事が続き、いろいろと書きたいことがたまっているのですが、ズボラ娘は腰が重い。
ということで景気づけの投稿です。
ことよろです👍
穴のあいた桶】
水をためるための桶があります。
その桶の底には穴があいています。
それをあなたはどのように捉えますか?
私は、中学二年生のころに脳腫瘍を患い、これまでに5度、6度と開頭手術を受けてきました。
その間にも、放射線治療などを受けたりと、私の学生時代は周りのことは少し異なる特殊なものだったと思います。
そのような状況で周りの友達とは共有することのできない思いや感情を多くため込んでいくことにより、心の中の孤独感が色を濃くしていきました。
そんな陰鬱とした気分は長く付きまとい、大学に入学するその時まで、私は自分は誰とも分かり合うことのできない、特殊で特別な存在なんだと心の底で感じながら生きていました。
そんな私の転機となる出会いは、大学入学とともに訪れました。
大学一年生の春、人間関係とコミュニケーションという授業の初回講義を受けていた時です。
その講義を受け持つ教授の口から学生に対してこのような言葉が発せられました。
「誰も特別な人なんていない」と。
その言葉を聞いたときに私の中に衝撃が走りました。
それまで自分を特殊で特別な人間だと思い込んでいた私にとってその言葉は胸に刺さり、自分の愚かさを実感したとともに、一人孤独で苦しんでいた私を救う言葉でもありました。
それから私はこの教授のもとで4年間学び、育ち、人と分かち合うことの喜びを徐々にではありますが知ることとなりました。
そして月日は経ち、大学を卒業した私は無事に就職を果たし、仕事に励みました。
しかし働き始めて3カ月くらいし、ようやく仕事にも慣れてき始めた頃に、再び残存腫瘍の増大がみられ、またもや手術を受けなければならない状況に陥りました。
このときの手術により私は、命と引き換えに視覚を失いました。
これは5年前の出来事です。
これから頑張っていこうとしているさなかに腫瘍の増大を知らされた当時は、悔しさと絶望感でいっぱいになりました。
また、ほぼ確実に視覚を失うという可能性を聞かされた当初は、目が見えなくなったらどうやって生きていこうかと、先の見えない状況に思い悩み、手術を受けるかどうかに迷いが生まれていました。
そんな葛藤を抱える中で、先述した大学時代の恩師に助けを求めました。
すると、電話口でこんな言葉をかけられました。
「目が見えなくなったってむつみであることに変わりはないだろ。」
「目が見えなくなることと死んでしまうこと、どちらが重要なんだ。」
とはっきり言われて、目を覚ましました。
そこで「先のことは分からないけれど何とかなる、とりあえず生きてみよう」と想えたわたしは手術を受けることを決意しました。
今、このときにかけられた言葉を振り返ってみると、学生時代まで自分を特殊で特別な存在に仕立て上げていた私を、特別でも何でもないかけがえのない一人の人間として認めることの意味がここに詰まっているのだと気付かされました。
目が見えることと見えないこと。
これまで私の体に備わっていた視覚という身体機能の一部が失われたとしても、私が私であることには変わりない。
特殊でも特別でもなんでもない。
そして心や体の機能によりその人の価値が左右されることはないという価値観を得ることができたことは私の誇りです。
さて、冒頭の問いに戻るのですが、穴のあいた桶の話は、手術を終えて落ち着いてきたころに恩師が見舞いに来られた際に話してくれたものです。
「桶の底には穴があいていて、水をためようにも穴から流れ出てしまう。」
「しかしいつか、その穴の影響なんてものともしないようなことが起こるんだ。」
この話を聞いたとき、私は穴から流れ出る水以上の水がどんどん注がれて桶が満たされるようなことをイメージしたり、いつか小石が流れてきてその穴を塞ぐのかもしれないといったことを考えていました。
そして、穴はきっと私で言うと視覚障害を指しているんだろうなと思い、その穴、つまり障害を塞ぐ、カバーすることばかり考えていました。
しかし、その後確か1年くらいしてからある夜にふとその答えが降りてきました。
「私はその穴を利用して、自分に注がれた水を外の社会へ流して潤すことができる」と。
そこで桶に空いた穴、視覚障害がネガティブな意味を持つものではなく、それにポジティブな意味を与えることができたのです。
この考えに至るまでに強く影響を受けた思想があります。
「絶望=苦悩-意味」
この方程式は、オーストリアの精神医学者ヴィクトール・E・フランクルが彼の著書『意味への意思』(春秋社 2002)の中の注釈部分に記したものだそうです。
彼はナチス政権下のドイツでアウシュビッツ強制収容所に囚われていた体験から本書の執筆に至り、この方程式と共に、「つまり絶望とは意味なき苦悩である」という一文が書き添えられているとのことです。
これらの話は、数年前に読んだ福島智先生の著書『ぼくの命は言葉とともにある(9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)』(致知出版社(2015)の中で紹介されており、このことが私の人生のアップデートにつながる考えの基となりました。
フランクルは“人が生きる上で実現する価値”を次の3つに整理しました。
①創造価値
②経験価値
③態度価値
創造価値とは何かを生産するような創造的な活動を指すものであり、それらの行為を通して世界に何かを与える行為に伴う価値を意味します。
このような与える行為ができないとしても、何か美しい風景を見て感動するなどといった行為に伴う価値が体験価値に当たるとされています。
そして、態度価値はこれらの創造的な行為も素晴らしい体験も制約され、生命が大いなる苦悩に直面したとき、その苦悩にどう対処するかによって実現されるものだと定義付けられました。
フランクルはこの態度価値を3つの価値の最上位に置き、色々な制約や制限が課されたときに、自分の生に対してどのような態度をとるかということの中にその人の最も根源的で最も崇高な価値があると主張しました。
福島先生はフランクルのこのような思想をを端的に言い表すものとして先述の方程式を取り上げ、さらに
・「絶望」と「苦悩」は異なる
・「苦悩」には意味がある
ということがこの方程式の中では示されていると仰られています。
そして最終的に福島先生はこの方程式から次の方程式を導き出されます。
「意味=苦悩+希望」
これは絶望と意味を移行操作し、「希望」を「絶望」の反意語として当てはめた公式
であり、そこで福島先生は
「苦悩の中で希望を抱くことの中に人生の意味がある」
といったことを述べられています。
福島先生自身、若くして視覚と聴覚を失っていくという極限の苦悩の中で自問自答し、その苦悩に対して意味を見出していく過程を振り返る中で、自身の体験とフランクルの公式がリンクしてきたと語られています。
この公式が示すものとして私が面白いと感じた部分は、そもそもが人生は「苦悩」ありきだということです。
恩師とこの話をしていた時にも、
「この世に生まれてくること自体が人生の中で最大の危機であり苦悩だ」
というお言葉をいただき笑ってしまいましたが、程度は違えど誰しもが苦悩の中でもがきながらそれでも生きることを続けているのだと考えると、その「苦悩のゲーム」をいかにして輝かせるかの闘いが人生と呼ぶのかな。
とか、それっぽいこと言っちゃいますけど、、どんな状況でも常に意味を見出し、新たな人生を創り出していけるということ、人間の誇りであると思います。
とにかく、私は桶の穴に意味を見出すことができたことがその当時はとてもうれしかったんです。
自分の人生なんだから、それにどのような意味付けをするかも自分の自由です。
人には前を向き歩んでいくたくましさがあること、そして新たな可能性を模索し生み出してゆく創造力があること。
このことを信じて私は生きています。
次回は本稿に登場した私の恩師が担当します!
お楽しみに!
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